教育
忘れないようにメモ。
学級担任になって、早3年目。
あの子たちも、ようやく3年生として、自分に向き合い、将来のことを考える頃になった。
成長したなーと。
落ち着いたなーと。
私自身も、確実に落ち着いた。
「過ぎる」が付くぐらい、落ち着いた。
どういう風に担任としてやっていこうかな!?
なんて考え悩んだ日々が懐かしい。
そうやって、頭を抱えてた担任1年目の時にもったクラスのとある女の子。
3年生になって、自分の進路を考える時分になると、
将来は高校の先生になる
そう心に決めたらしい。
きっかけは、私。
面接や自己推薦文の添削指導の中で、私にあれこれ話してくれた。
当然、嬉しかった。
でも、やっぱり心につっかえるものはあった。
日本における教育現場の現状に、希望を感じない。希望を感じたいとも最初から思えない。
そう感じてしまう教育現場。
○○教育を推進すべきだ!☆☆をしなければならない!……
今の教員はこうあるべきだ!こうしなければならない!……
違う。そうじゃない。
現場の必要なのは、そんな意見や意識統制じゃない。
必要なのは、金。資金。
担任になる前の1年間、初任者研修に行って幾度となく教育現場の関する講義を受けてきたが、
結局のところ、資金が圧倒的に不足しているのが足枷になってるだけなのでは?という感想をもった。
確かに、まだまだ世間の変化に対応しきれていない教育者もいる。
この数十年の変化は劇的であり、人間教育の面では、殊更問題が発生するほどに順応出来ていないのも納得できる。
とは言っても、ただ闇雲に校内外の研修の名の下の意識統制を図ったところで、それに対するリターンがなければ、効果はないに等しいのではないか。
いや、リターンよりも、むしろ金銭面のマイナスの方が大きい。
強制的な意識統制に対して、強制的に出費させて、一体何を求めているのか。
私には到底出来そうにない。
1校目かつ4年の勤務年数しか経過していない教育者の端くれだが、日本の教育に対してはもはや諦観している。
希望は全く感じない。
それでいて、なぜ教員を続けているのかと問われれば、私の理由は一つ。
無償の奉仕による自己満足のため
非常に正直で、明るくて、一生懸命な、めげない我慢強い子。
そんな子が、私を憧れとし、教員になることを目標としている。
ただただ、苦しい。
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